マリヲ・細谷淳

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ねじ

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 嶋丸について思い出したのはトラックの荷台に嶋の字を丸で囲んだペイントを見たからだった。引越作業員の同僚として嶋丸とは会って、会った初日に三千円を借りた。嶋丸は白髪混じりの少し長い髪をひとつくくりにして帽子の後ろの穴から出していて、コロンの良い匂いがした。普段なにをしているのかと彼は聞き、嶋丸はブラジルの店をやっていると言った、派遣社員の嶋丸はでもよく働きよく喋った。
 日本人であることを誇りに思うべきだと車中で嶋丸は言った。日本ちゅのはすごいんやでえ、なんでてほれあれトーシバ、シャープ、みなこれチップ作っとるやろ、核弾頭のチップやらこれもみな日本製やがな、全部細工しとるに決まっとるがな、そういんがな、世界へのそういんが日本はちゃんとしとんねん。勉強家やしな、がんばるしな、せやから日本人であること、誇りに思う、俺は、思うべき、ゆうか、思った方がええと思うんやけどなあ、語尾にかかるにつれてどんどん声も肩幅も小さくなっていった嶋丸はトラックの中央に座って揺られていく。「おっさんなんかあったんか」と運転手は言い、少し暑い車中の空気は汗とコロンの匂いが混じって苦くなった。嶋丸はきっと奥さんと喧嘩して仕事に来た。それなら「嫁と喧嘩した」と言えばいいのにと彼は思うけど、おそらくそれでは伝わらないなにかがあって嶋丸は気の狂ったことを言う、本心ではない、あらすじは本心ではないけど、遠回りしないと解消できない気持ちをそうやって言った、とそこまで考えて彼は「へえー」と言った。勉強せなあかんで、ひとごとちゃうでと嶋丸は言い、その声は階段、踊り場のコンクリートによく響いていた。
 それから階段二階から階段三階の作業だった。本がたくさんあって、嶋丸の呼吸は息切れを通り越して魂が出入りしてるみたいな音になった。彼も膝をついては、茶を何本も呑んだ。流石運転手は社員だからピンピンして汗を垂らす、荷物は減らず終わらないまま、ついに嶋丸は目を剥いて「のうり」と言って座った。もう無理ちゃうねんおっさん、やった終わり、やった終わり、終わったら終わりやで、ほれもうちょい気張れと社員は優しく叫んで、でも「のりで」と言って嶋丸は段ボールをひとつだけ持ったまましゃがみこんでしまった、そのまま芝生の上に寝転がるような形になった。一応彼は嶋丸に駆け寄って「大丈夫か」と聞き、嶋丸ははっと目を開けると「どうしたもこうしたもないよ。大丈夫ってなによ。ソーホーってなによ。双方の意見を聞けよ。わかってんだよ腰いてえよばかやろう。あーあ。あーあーあ。こんなとこまでわざわざ小便袋、ぶら下げてくんじゃなかった。そうこうしてる間に日が暮れんだろう、わかってるよ。あーあ。あーあーあ!」と乱暴に言った。頭に春のねじが突き刺さっているみたいだった。びしゃびしゃに濡れた花がそこにはあって、嶋丸の背中で押し潰されてた。潰れた嶋丸がその花に支えられて、それでやっと生きているみたいに思った。お客は心配して上から覗きこみ、彼はその風景を可愛いと思った。
 通りすがった散歩途中の犬が三人をじっと立ち止まったまま見つめていた。運転手は「休憩しよう」とやっと言った。